corgibell.com

私の海軍

多田一男

 

海軍機関学校を経て、
太平洋戦争開戦2年前に任官し、
海軍少佐にて終戦。
その11年間(17才~28才)の記録。


 始めに 
 今の時代には過去の戦争のことなど話題にもならないだろうが、私自身にとっては人生の教訓であり、また懐かしい思い出でもある。
 10年ほど前から当時の色々な出来事を忘れない内にと書き溜め始め、それを整理したのが本書である。
平成5年7月

 

 1.海軍機関学校時代  
1.-1 海軍機関学校合格
 私は京都府舞鶴で生まれ、父親が海軍の軍人であった関係で父の転勤のため長崎県佐世保市と母の故郷である広島県広島市の小学校を2回ずつ転校した。最後は佐世保市の小学校尋常科を卒業し、引き続き佐世保市の県立佐世保中学校に通い、昭和9年3月に同校を卒業した。
 私の家はあまり裕福な家庭ではなかったから、お金のかかる上級学校等は思いもよらなかった。しかし、成績が良ければ海軍の学校に行ける。
 当時、海軍の兵学校と機関学校と言えば、誰でも簡単に行ける学校ではなく、特に機関学校は30倍の競争率で、兵学校より難しかった。しかし、この何れかの学校に入れば、将来は海軍将校として社会的にも地位が高く、楽な生活が出来た。もし、これが駄目なら大学までは望めないとして、少なくとも専門学校位には行きたいと思っていた。その目標として熊本工業専門学校を狙っていた。
 私自身は決して体は大きい方ではなかったが、体格的にバランスが取れていたのだろう。幸いにも昭和9年度の海軍機関学校生徒予定者として合格することが出来て、大変嬉しかった。
 もちろん、両親は本当に多年の念願が果たせた様に喜んでくれた。
 当時、エンジニア重視の観点から、機関学校の試験が先にあり、その合否が決まった後に兵学校の試験が行われていた。当時の海軍部内ではどちらかと言うと、兵学校の兵科将校の方が機関学校出身の機関科将校より上に見られ、幅を効かせていた。兵学校の方を望むなら、機関学校合格予定を放棄して、改めて兵学校を受験すればよいのであるが、兵学校の方もそう簡単には合格するものではないので、折角合格した機関学校を捨てるのも愚かと思い、機関学校合格を受諾した。

これが小生の海軍との縁の始まりである。

上海事変で現地に出征中であった父が帰国し、特に強く喜んでくれたのを覚えている。

 このような経過で、機関学校生徒として舞鶴にて4年間を過ごしたのであるが、この間に受けた教育は私の生涯に素晴らしい影響を残してくれたのである。
 その教育構想は、海軍兵学校や経理学校、また陸軍士官学校等、全ての軍学校と基本的には変わるところは無かったかと思うが、教育の考え方や方法等はそれぞれ特徴を持っていたと思う。
 機関学校は、その名の示すとおり軍艦で一番大切な原動力となる機械を動かすための技術的教育をする所である。いわゆるエンジニアを養成する学校であるが、単に工場などのエンジニアではなく、戦闘下においてその艦の力を100%発揮するためのエンジニアであるので、バトルエンジニアと呼んでいた。
 これは、ただ頭が良く技術者として物を知っているだけではなく、いかなる環境にあってもくじけない精神力と体力、ならびに技術応用力を必要とした。どの軍学校でもそうであったであろうが、特に機関学校はその辺のバランスが取れた教育であったと思う。
今日まで私が生き続けて来られたのは、この機関学校が私を作ってくれたおかげだと思っている。
 
1.-2 海軍機関学校の教育
 校内生活は全寮制であり、生活様式は分隊制度で1ケ分隊は最上級生の4学年から1学年まで約20名で編成されていた。昼間の軍事教練に体育、夕食後の自習、食事、就寝等の総てがこの分隊編制の下で行われ、その指導を最上級生の1号生徒(4学年)が生徒長と言う責任職に各期交替で1名が就任し、実施していた。
 特に4号生徒(1学年)に対する躾は厳しかった。起床後の毛布のたたみ方、洗面行動、整列の仕方等々、すべてが海軍独特の教育、躾であった。それはいざ戦闘と言う時、艦内ではこうあらねばならぬと言う対戦闘動作を、そのまま日常生活に取り入れ教育化したものである。
 起床ラッパと共に行う毛布のたたみ方は、いかにも慌ててやっているように見えるが(これをモーションレースと言う)、慌ててやっても総てがきちんと早く出来なければ何にもならい。もし不整頓ならば、朝食から寝室へ戻って見ると毛布の一組が完全にひっくり返されていて、たたみ直しをすることになり、また大変なお叱りを受ける。
 それは「敵艦見ゆ」あるいは「敵機来襲」で戦闘配置につく場合、グズグズしていては敵に先を越されるので、何でも先制が必要。一方で、いくら早くしても、やることをやらず、きちんとした処置が出来なければ、機械は動かず、不正確で射撃は出来ない、と言う考え方からの躾である。
 また、校内のすべての階段は、必ず手を腰に上げて駆け足で昇降する。それは何故か? 艦内は非常に狭い。その狭い所にある階段をのこのこ上がったり降りたりしていては、人の迷惑のみならず、戦闘時には聞に合わない。
 何でもないことのようであるが、日常こうして習慣づけておくことが、特に艦乗りとっては必要なことなのだ。特に4号生徒だけに厳しいのは、今まで中学生時代すなわちシャバのオボッチャンであったからである。
 この躾はほぼ1年間で身についてしまう様である。反対に、1号生徒は文句を言うだけでは駄目。自らこれが実行出来なければ教育の効果なし。4号生徒だけが辛いのではなく、1号生徒もその点は大変であった。
ここで余談的に付け加えておきたいことは、機関学校も他の軍学校と変わらず、やはり軍隊特有のビンタやハリがあった。私も4月に入校して8月の夏休暇までの間に一つ一つ数えて見たら、殴られた数が80幾つになっていたが、以後は数え切れなくなった。これも殆ど4号生徒の間抜けが原因であった。


続きはデジタル化中