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     サハラ紀行 「アルジェリアからの手紙」


 緑におおわれた広大な牧草地の中を、1本の舗装路が延々と続いています。道路脇にはポプラのように細く高い並木が連なり、まぶしい朝日をさえぎってくれています。
 フッと以前にもここに来たことがある様な懐かしさを覚えてきました。そう、ここは北海道に似ています。さわやかな風になびく緑、抜ける様な青空、そして遠くにはその緑と青を区切るように山の稜線が波打っています。
 オンボロ車で北海道を旅行した昔を思い出しながら、ボクの運転するブルーバードはひたすら南下していきます。すると、並木の間から白い布をまとった人が姿を現しました。たれ目のとぼけた顔に口ひげをたくわえて、引きずる様な白いローブをまとったアラブ人です。
 そうです、やっぱりここはアルジェリアでした。
 
 アルジェリアには、地中海に平行して二本のアトラス山脈が横たわっています。海側が地中海アトラス、そして砂漠側がサハラ・アトラスです。いま走っているここは、その中間の牧草地帯。独立以前は、ヨーロッパの穀物庫と言われ、この国を支えていた収穫の地でした。しかし、今では草ボウボウの放ったらかしの所ばかりで、ときどき思い出した様に耕耘機が一人寂しく動いているだけです。今は、石油で得た外貨で、逆に食料を輸入しているとのことです。
 
 さて、車をさらに南下させましょう。
 いよいよ目の前に砂漠の北進を食い止めているサハラ・アトラスが見えてきました。この当たりまで来ると、そびえる様な木々も姿を隠し、緑の間からチラホラ茶色い土が顔を出し始めます。
 サハラ・アトラスは、地中海アトラスに較べると高い山ではありません。それも一本に連なる山脈ではなく、所々に土と岩の山が飛び出しているといった感じです。それは、地球の内部が露出している様でもあります。どの山にもクッキリと断層が走っているのです。空に向かってそそり立つもの、クネクネとカーブを描いているもの、きっとヨーロッパやアラブから入れ替わり立ち替わり抑圧されてきた民衆の歴史と同じ様に、この大地も周辺の大陸から押され続けてきたのでしょう。
 
 このアトラス越えは50キロ程続きますが、道はそれほど上下しないので、アトラスをいつ超えたのか気がつかないうちに砂漠の中に入ることになります。
 ついにサハラ砂漠の中に入ってきたことには、段々に低くなってきた木々が完全になくなり草だけになったことで分かります。高さ30センチ程の丸く生えた草が、ザラザラした土の間に広がっています。ただし、いくら不毛の土地に近づいたとは言え、ところどころには赤や紫の花が咲いているくらいの愛嬌はまだ残っています。
 この辺りは、正確には土漠と呼びます。足で踏み付けるだけで割れてしまう黄土色の石が、地平線まで広がっています。
 この頃には、夏の軽井沢の朝の様にさわやかだった六月の風も、ギラギラと照りつける太陽の光のシャワーにすっかり変わっています。窓から飛び込んでくる走行風も熱風に変わり、エアコンなど付いていないブルーバードの車内は50度をかるく超えてしまいました。もし、まだ雪すら残っていた二月からこの地に来て少しづつ体を慣らしていなかったら、今頃はすっかりのぼせてしまっていることでしょう。しかし、たかだか砂漠の入り口あたりで参っていては砂漠の中では生活出来ません。『今日はいつもよりちょっと暑いな』といった程度でハンドルをにぎらなくてはいけません。
 
 グルッとまわりを見渡せば360度全てが地平線です。もし、ハエがガスタンクの天辺に止まったら、きっとこんな風に見えるのでしょう。
 その黄土色のガスタンクの上をラクダが数頭ゆっくりと歩いていきます。そして、風に吹かれて、砂が這う様に道路を横断していきます。
 ここは、まだ砂漠の入り口です。しかし、シロッコ(砂漠の風)に運ばれて奥地から砂が少しづつ移動し、毎年数キロづつ砂漠が広がっているそうです。何年か後には、ここも完全な砂漠になるのでしょうか。
 灼熱の太陽が、頭の上で熱を放出しています。そろそろ喉も乾きはじめ、ただまっすぐなだけの道にも飽きてきました。もう数日、緑の豊かな首都アルジェに残っていれば良かったと後悔するボクの気持ちを無視するように、ブルーバードは100キロをはるかに越えるスピードを維持したまま、砂漠に向かって突き進んでいきます。前方をウロウロと走っているシトロエン2CVをアッという間に追い越して、いよいよ本物の砂漠の中に入っていきましょう。
 
 砂漠の色は、いつも変化しています。スカイブルーの空を背景にしたオレンジ色の砂漠が良く写真に登場しますが、これは天気の良い日、それも朝方だけの色です。日中になると、熱気のために吹き始めるシロッコのせいか、薄茶色に変化します。そして、そのシロッコによって太陽さえもぼやけてくると、砂の色は真っ白に近い位になってしまうのです。
 今日は、それほど風もなく薄茶色。そして、その薄茶色のうねりが何重にも重なりながら、はるかかなた地平線まで続いています。そんな砂漠の中にも、ところどころにちゃんと草が生えています。緑色とは言いがたく、砂をかぶって灰色に近くなってしまっていますが、こんな不毛の地にすら生える生命力には感激してしまいます。もっとも、その草をラクダに食べさせながら移動していく遊牧民がいるのですから、人間だってたいしたもんです。


 さて、首都アルジェから走ること600キロ、どちらを見ても砂漠だけの道にうんざりしてきた頃、突然目の前に広大な緑のオアシスが姿を現します。ここが、ボクの定住地、トゥグールです。近くで天然ガスと石油が取れるため、街の廻りには煙突のそびえる工場がたくさんあります。一見近代的なところの様ですが、オアシスの中、つまり街の中に入ると、砂を固めて作った黄土色の平屋ばかりのひなびた街です。それでも人口は5千人位はあるらしく、裸足の子供達がそこら中で遊んでいます。大人達は、カフェにたむろしているか木陰で世間話などをしています。なにしろ、のんびりした風情のところです。
 この街はずれに、オアシスに囲まれたボクの住処、ホテル『オアジス』があります。ここは、国営旅行公団が経営しているため一通りの設備が揃っていて、部屋にはクーラー、シャワーがあり、さらにテニスコート、プールもあるのです。二月からすでに4ヶ月間ここにいるため、従業員とはすっかり顔なじみです。朝起きてからレストランまで歩いていく間、会う人ごとに握手と挨拶を求められ、わずか50メートルの距離を10分はかかってしまいます。当初、ここには二人で来たのですが、2ヶ月たったところで、相棒は日本に帰ってしまいました。当時は『ボンジュール』がなんとか言える程度のフランス語しかしゃべれず、一人こんな所に取り残されて途方に暮れていました。でも、このホテルの人達が皆親切で友達づきあいをしてくれるため、寂しい思いもせずになんとかやってこれたのだと思います。先日、ホテルのフロントマンの結婚式にまで招待されてしまいました。この話はあとでしましょう。

 あたりまえの話ですが、砂漠はとてつもなく暑いところです。四月頃から既に日本の真夏を越えていました。しかし、こちらの人にとってはまだ序の口らしく、『暑いね!』と挨拶すると、皆ビックリした様な顔で『まだ涼しいぞ』と答えを返してきます。30度を越える暑さの中で、ボクだけが汗をかいているのですが、こちらの連中はブレザーなど上着を着て実際に涼しそうな顔をしていました。
 
 四月の後半から砂あらしの時期に入りました。これは、日本の春一番と同じで、吹き去るごとに暑くなっていきます。前の日に、なにやら空の向こうが茶色くなってきて、ただならぬ雰囲気がただよってきたと思ったら、次の日、それはもうすさまじいものでした。外にいると吹き飛ばされそうで立っていられず、顔にも砂がバチバチとあたり目も開けられません。車の中に逃げ込んで窓を閉めても、どこからともなく砂が忍び込み、服がみるみる茶色くなっていきます。ホテルに帰れば、これまた部屋中砂だらけで、毛布をはたくとモワッと砂が舞う始末です。しかし、これがその次の日になるとカラッと晴れて、前よりも一段と暑くなっていると言った具合です。1ヶ月の間に4、5回吹き荒れて、40度を越える本物の砂漠の夏がやってきました。そして、やっとこの時に『暑いね!』と挨拶を返してくれるようになりました。
 
 砂にまみれて帰ってみると、水が出ないことが良くあります。こんな時はベトベトの体で一日中過ごすわけですが、情けなくなりますね。この前、シャワーを浴びていたら、なんと途中で水が止まってしまい、体中泡だらけで唖然としたことがありましたっけ。それ以来、いつ水が止まっても良い様に、頭から下へ部分的に洗っていく様にしています。泡だらけで、その後どうしたか気になりますか。幸い、ビン詰めミネラルウォーターが2本あったので、これをかぶってなんとかしました。但し、一本300円でしたから、高いシャワーにつきました。また、水が出ても茶色く濁っている日が少なくありません。こんな日に洗濯しようものなら、かえって茶色くなってしまい、うかつに洗濯も出来ない始末です。こちらに来た当初、茶色の服を着た人が多く、さすがフランス文化の影響を受けて皆オシャレだと感心していたのですが、なんのことはない、洗濯で茶色くなっても目立たない色の服を着ているだけのことでした。こういうのも生活の知恵と言うのでしょうか。
 
 というようなわけで、砂漠で生活をしていると色々と苦労があります。ついでですから、苦労話をもう一つしましょう。こちらの人は、トイレの後に紙を使う習慣がありません。トイレに入ると、脇に水を入れた小さな空き缶が置いてあるだけです。なんと、指を使い、そして空き缶の水で指をチョコチョコと洗っておしまいです。こちらでは、いついかなる時でも常に握手から始まるわけですが、ボクがトイレに行こうとして、そこでちょうどトイレから出てきた人に会ったとしても、それは例外ではありません。握手を求める手が、そして指が濡れていても、握手を断ることは出来ません。あー、ババッチー! 話が横道にそれてしまいましたが、要はトイレットペーパーがどこにも売っていないのです。こんな田舎の街ですから、外国人で住んでいるのはボク一人で、したがって誰も使わないトイレットペーパーなどあるわけないのです。もちろん、ホテルは洋式の水洗トイレで、トイレットペーパー入れも付いているのですが、肝心のものがいつも入っていません。フロントに文句を言っても、『無いものは無い!』と言われておしまいです。かくして、首都アルジェからこちらに移動するときは、車のトランクにトイレットペーパーをいっぱい詰め込んで来る次第です。この前、パリに行ったときに、ホテルにコンパクトなトイレットペーパーがあり、思わずこれは便利とスーツケースの中にしまい込んだりして、悲しい習慣です。(パリの話もあとでしましょう)

 さて、こんな砂漠に何をしに来ているのかと言えば、やはり仕事のためです。ここトゥグールは、砂漠の中では大きな方の街で、近くに油田もあることから、トラックの出入りはかなりあります。ここに基地を持つユーザーに日本のトラックが試験的に使われており、ボクはそのお守り役というわけです。ユーザーの整備工場にはメカニックが200人程いて、大半顔見知りになりました。朝、ここに顔を出すと、例のごとく握手から始まるわけで、あまりに人数が多くて実際に仕事を始めるまでに30分は軽くかかってしまいます。砂漠の中に来ると、挨拶はほとんどアラビア語となり、『サラーム・アレイコム(アラーの神よ永遠に)』『サラーム(偉大なるアラーよ)』てな具合に朝の挨拶を繰り返すわけです。
 
 一つの場所でトラックが帰って来るのを待っているのも消極的なので、先日トラックに同乗してサハラ砂漠を一周してきました。右も左も地平線ならぬ砂平線の中を、さらにひたすら南下していくのです。トゥグールから少し行くと舗装路もなくなってしまいます。ときどき遊牧民がラクダをしたがえてノンビリ移動しているのを横目で見ながら、ギラギラと照りつける太陽と、トラックのものすごい振動にジッと耐えながら走っていきます。この辺りは、パリ・ダカール・ラリーでも使われているコースです。そのうち、遥かかなた前方にモウモウたる砂煙があがっているのに気がつきました。これは砂嵐か竜巻かと思っていると、30分程してその砂煙の原因であったトラックとすれ違いました。自分のトラックの後ろを見てみれば、こちらもモウモウと蒸気機関車の様に砂煙を上げながら走り続けていたのです。そんな砂だらけのところでも、ときどき渓谷の様な場所もあります。平らな砂漠に、ニョキニョキと細長い岩山が何個も生えている感じです。きっと、その昔サハラの大地は、あの渓谷の頂上あたりまであったのでしょう。長年の風の浸食で柔らかいところが削られ、そしてその砂が風に乗って移動し、今の広大なサハラの大地が出来たのではないでしょうか。その削られた渓谷は、時には高さ100メートル位のところも出てきます。アメリカのグランドキャニオンも、きっとこんな所なのでしょう。頂上に歴代のアルジェリア大統領の顔でも彫ってやりたくなりました。
 
 こんなところですから、ホテルも満足になく、砂漠の中で何回か野宿するはめになりました。サハラのかなたに真っ赤な夕日が沈む頃、やっとトラックの振動から解放されます。トラックのドライバーが、その夕日を背に受けながらメッカに向かってお祈りを始めました。砂と太陽だけのところですから、今日も一日無事に生きてこれたことを感謝する気持ちは分かる気がします。そして、やがて陽が沈み、地平線も何も見えなくなりました。砂漠の中にポツンと一カ所だけ明かりを灯して、夕食の始まりです。ドライバーの作ったアルジェリア料理です。ショルバと言う名前で、トマトケチャップ風味のスープに羊の肉を入れたものですが、これがなかなか美味なのです。満天の星の下、食後のコーヒーを飲んでいると、どこからともなくパカパカとラクダとラバがやってきました。ラクダというのは近くで見ると想像以上に大きくて、下アゴに生えている髭を眺め上げる感じになり、圧倒されてしまいます。日中のあの暑さもうその様に、ヒンヤリと肌寒くなってきました。持ってくるべきか悩んだ羽毛のベストを着込み、トラックのキャビンの中で寝ることにしましょう。外ではまだラクダ達がパカパカやっています。空を見やれば、やっぱりこちらでも北斗七星が見えます。どんなところでもすぐに寝られるボクのこと、ロマンチックな気分になったところで・・・・・・・・。そして、真っ赤な朝日に目をさまされました。心地よい大あくびをしながらトラックのキャビンから飛び降りると、1メートル目の前に毒ヘビがいたりして、やっぱり砂漠はこわいところでもあります。
 
 こんな感じで北回帰線の真下まで行って来ました。トラックに同乗していくのは二度とゴメンですが、クーラーのバッチリ効いたジープで、もう一度是非行ってみたいものです。そこにあるのは自然そのものです。かなたに沈む夕陽を見ながら、また東京に帰ってアクセク働くのかと何度も思いました。砂も太陽も逆らうことの出来ないものとして素直に受け止め、ラクダにまたがって遊牧するのも、また一つの人生です。もっとも、そんなところをクーラーの効いたジープで、などとしか考えられないのが我々の哀れなところです。

 さて、首都アルジェに戻ってみましょう。この国は、全く異なる二つの顔を持っています。東西に走るアトラス山脈で二つに分断されていて、南側は砂漠地帯、そして北側すなわち地中海沿いはまるでヨーロッパと見間違うほどの緑の大地です。したがい、砂漠からアルジェに戻る時、アトラスを越えるとしばらく見ていなかった新鮮な緑を目にしてホッとします。本当に緑というのは心をなごませてくれる色です。日本はどこに行ってもこの緑に覆われていて幸せな国だと思いながら並木道を走っていると、東京からチョッと車で旅行をしにきただけの様な錯覚におちいります。そして、さらに車を進め、アルジェの街中にまで入れば、ここはもうパリそのものです。一昔前、アルジェリアがフランスに統治されていた頃、故郷から遠く離れて地の果てで生きていかなければならなかったフランス人が、ひたすらパリにあこがれ、ここアルジェをパリと同じたたずまいに作り上げたのでしょう。目抜き通りの路上のカフェで、のんびりとコーヒーを飲んでいると、ボクもパリにいる様な気がしてきました。でも、街を良く見ればヘビ文字(アラブ文字のこと)があふれ、顔をベールで隠した女性がこちらをジロジロ見ながら歩いていきます。やっぱり、パリにはパリジェンヌがいなければなりません。アッという間に現実に引き戻されてしまいました。
 
 こんなアルジェの一画に、お世話になっている商社の事務所があります。ここには日本人がたくさんいます。世界的な不況の中で、未だに公共投資を押さえず、と言うよりはますます盛んに行っているのはアルジェリアくらいなもので、エコノミックアニマルの日本人がここを狙わないわけがありません。なんと言っても、フランス語のしゃべれないボクですらここにいるのですから。商社の方も、それを受けてかなりの設備を持っています。特筆すべきは独身寮の食堂で、ここは外来者用の食堂も兼ねているのですが、なんと毎日ご飯に味噌汁の日本食なのです。当地に来てご飯やウドン、ソバが食べられるとは思ってもいませんでした。かくして、ボクがアルジェに戻る最大の楽しみは、この日本食にあるわけです。

 突然ですが、アルジェから飛行機に乗りましょう。2時間飛べば、そこはパリです。
 
 2ヶ月に一度、ビザの書き換えのためにパリに行かなくてはなりません。これまでに3回行って来ました。1回目、すなわちアルジェリアに行く途中、ボクにとっては初めて降りたつ外国の地であるパリの思い出は悲惨なものしかありません。まず、天気が良くありませんでした。一日中、雲が低くたれ込め、陰鬱な感じです。こんな天気ばかりだから、ギロチンだなんてとんでもないものでマリーアントワネットを死刑にしようと考え出すのだと思いながら街を歩いていたら、ジプシーの子供たちに囲まれて知らないうちに500フラン(約2万円)を盗まれてしまいました。これがケチのつきはじめです。帰りの地下鉄代もなく、暗い気持ちでホテルまで歩いて帰れば、フロントの人間に『おまえのフランス語は分からん。英語を話せ。』と言われ、英語に変えれば『発音が違う!』とフランス人に英語を直される始末です。ボクにとっては、英語だって生まれて始めて使うのですから、しょうがないことです。今だったら『あんたの英語はフランス語なまりだ!』と言ってやるのですが、この時はそんな余裕はありません。さて、気を取り直して、夕飯を食いに出ればメニューが読めず、ヘンテコリンなうまくもない肉料理を食わされて、もうウンザリでした。パリがこんな具合でしたから、このあと地の果てアルジェリアに降り立ったときは、普通ならとんでもないところに来たと緊張するのでしょうが、ボクの場合は、さわやかな風をあびて、ホッとしてしまった次第です。
 
 一転して2回目のパリ、これはもう天国でした。天気は相変わらず悪く、四月だというのに雪が降っていましたが、そんなことはボクにはもう関係ありません。まず、真っ先にトンカツ屋さんに駆け込んで、2ヶ月ぶりに豚肉にご対面。(イスラムの国では豚肉はご法度なのです) そして、夕飯はさしみを肴に日本酒で一杯やってから好物のさけ茶漬けで仕上げです。パリには、食べられない日本食がないくらい、日本食レストランがそこらじゅうにあります。もっとも、それに見合うだけの日本人もゴチャゴチャといるわけで、あまりいると同胞意識のかけらもなくなり、日本人同士で目を合わさない様に歩くのが一苦労です。前回はホテルの部屋でふてくされて寝ていましたが、今回は地下鉄を駆使して飛び回ったのは言うまでもありません。
 
 パリは歴史豊かな街です。というよりは、歴史の中に現代が生きています。今にもナポレオンが出てきそうな石畳の街並みの中で、こちらの人が生活しています。日本とはこの点が違います。日本も歴史豊かなところでしょうが、過去と現代がはっきり区切られています。わざわざ出かけて行かないと歴史に触れることが出来ません。さしずめ、仕事は東京、観光は京都といったところでしょう。しかし、ここでは仕事の帰り道で歴史に触れることが出来ます。そのパリの歴史は、民衆の歴史です。フランス革命からパリコンミューン、五月革命に至るまで、そのパワーになり得た民衆一人一人が、先輩たちの築きあげてきた歴史を毎日なにげない生活の中で自然に吸収していたからこそ、何かをきっかけに、また一つのパワーになり得るのでしょう。日本には、この民衆の歴史の繰り返しが皆無です。
 
 などということを考えているうちに、パリでの一週間はアッと言う間に過ぎ、スーツケースの中に中華三昧(即席ラーメン)と梅干し、ウイスキーをしこたま詰め込んで、再びアルジェに戻りました。

 さて、車のトランクにその日本食と、そしてもちろんトイレットペーパーも積み込んで、再び南に向かいましょう。いよいよ、お楽しみ、結婚式の話です。
  
 いつもの様に仕事からホテルに帰り、『疲れたー!』とフロントに顔を出したところからこの話は始まります。
 『仕事はもう終わりか?(ル・トラバイエ・フィニ)』と問われ、
 『あー、終わりだよ(ウィー・セ・フィニ)』と答えれば、
 『ちょっと飛行場まで付き合え(アレー・ア・ラ・エールポルトゥ・アベック・ヌ)』
  
 このあと、ゴチャゴチャと何やら言われたのですが、一人で生活をする様になってすぐの頃ですから、これが全く理解出来ず、トゥグールのどこに飛行場があるのか知らなかったので、これが分かるだけでも良い収穫とばかりにくっついて行くことにしました。途中、民家の前で止まり、何故かお茶とお菓子をごちそうになり、首をかしげながら待っていると、続々と車があらわれ、その数15台。すると、家の中から太鼓と笛を持った人があらわれ、インド音楽に良く似たおなじみのアルジェリア音楽が始まりました。ここで始めて、さっきのフロントマンの言葉の中に『マリアージュ』というのがあったのを思い出し、それが結婚式という意味であることに気がついたわけです。ボクのフランス語はこんな程度で、これで砂漠の中で日本人一人で生活しているのですから、我ながらたいしたものだと思います。
 
 さて、音楽隊はドンチャカドンチャカやったまま先頭の車に乗り込み、ボクの車には白い布で顔を隠し片目だけ覗かせているおばさんを一人乗っけて、車の艦隊は飛行場までお嫁さんの出迎えです。途中で、ボクの車の後席に乗ったおばさんは、何度かヒョロヒョロヒョローと奇声を発しボクを驚かせました。そして、飛行場で待つこと1時間。式を取り仕切っていると思われる男がアッチコッチ飛び回っているうちに、砂漠の中にポツリとある小さな飛行場にプロペラ機が降りてきました。真っ白なツーピースに、派手な化粧の花嫁さんの登場です。すると、おばさん達が一斉に例の『ヒョロヒョロヒョロー!』と奇声を発してお嫁さんを歓迎します。さて、15台の艦隊は花嫁さん達を乗っけて街に凱旋です。先頭車の音楽隊は『ドンチャカドンチャカ』、おばさん達は『ヒョロヒョロヒョロー』、車はクラクションを『パンパカ』鳴らして大騒ぎです。一時停止の標識は無視し、普段は恐がっているパトカーや憲兵の車も止めて、街中を大パレードとあいなりました。まわりの車もクラクションを鳴らし、子供達も腰をくねらせて踊っています。こうやって街中の人に結婚を知らせるのでしょう。そして、そのパレードの車の台数が多いほど自慢になるのだと思います。ボクが引っぱり出されたのもそんなところからでしょう。街の道という道を全部グルグルとまわってから新郎の家に到着です。さて、いよいよ本番の結婚式が始まると思いきや、この日はこれでおしまい。なんと全部終わるまで一週間かかるとのこと。皆から『モン・ナミ・メルシー(友達よ、ありがとう)』と言われながらホテルに帰りました。
 
 週末の木曜日、薄暗くなってから再び誘われ、かの新郎の家に行きました。既に家の前の道には、砂の上にキャンバスが敷かれ、イルミネーションが灯されています。音楽隊を拾いに行かされてから、家の中に手招きされました。20メートル四方くらいの中庭があり、既に数十人が名物クスクスを食べています。これは、アルジェリアの国民料理というべきもので、アワかヒエの様に蒸した穀物の上にトマトソースをぶっかけて食べるのですが、場所によってスープの濃さに色々あります。薄いときは口の中がパサパサしてしまい、あまり美味しくありませんが、この日はなかなか美味で、カラシのピリッときいたボクの好みです。モシャモシャ食いながら廻りを見れば、女性が一人もいないことに気が付きました。料理を持ってくるのから、他の仕事を忙しそうにしているのまで、全て男だけです。もちろん、食べているのも男だけです。女性は家の中で仕事をするもので、公式の場にはいっさい顔を出さないとは聞いていたものの、なかなか異様な光景です。廻りにはドアがいくつもあって、それぞれが部屋になっている様です。その内の一つが開きました。電気もつけずに、くらい部屋の中には、なんと女性たちがたくさんいます。こうやって式が始まるのをジッと待っているのでしょう。さて、飯も食べ終わり、『うまかったか』と聞かれましたが、『うまかった』と返事をする間もなく席を追い立てられました。外には次のお客さんが食事をするのを待っている様です。おなかの中でクスクスがふくれてきた頃、いよいよ式の始まりです。既に観衆はあちらこちらから集まり、200名は軽く超えています。こちらは色の黒い種族ですから、これぞ本当の黒山の人だかりというやつです。中央に10メートル四方のステージを残し、まわりは人でいっぱいです。一辺に20名程の楽団が陣取り、その向かい側の一番良いところにボクの席が用意されていました。空を見やれば、今日は満月。夜になれば涼しい風も吹き、気分は最高です! 
 
 音楽が始まり、いよいよ新郎、新婦の登場です。まず新郎から。ここでビックリしました。この時までは、お恥ずかしい話、誰が新郎か知らなかったのですが、なんとボクを飛行場まで誘ったあのフロントマンではありませんか。直前まで仕事をしていて、飛行場までジーパンをはいていったのですから、まさかこいつとは思いませんでした。あわれなことにビックリしているうちに、白い布で片目だけを隠した例のおばさん達に囲まれて、新婦が姿をあらわしました。今日は、この前とはうって変わり、真っ黒な民族衣装をまとい、頭から赤い布をたらして顔を全部隠しています。こちらでは、結婚した女性は他人に顔を見せませんが、これでは歩くときに前も見えないでしょう。習慣、常識というのは、その国によって違うものだと改めて考えさせられているうちに、新婦も含めて女性集団は式場の一番すみの一角に陣取りました。常に男と女は別々です。さて、アルジェリア人でもまめに働くことがあるのだとボクを感心させた、この式を取り仕切っている男が、マイクを持ってなにやらアラビア語でしゃべり始めました。最後の『ショッコラン(ありがとう)』というのだけ分かりました。音楽が再び始まり、まわりの人達が徐々にリズムに合わせて体を動かし始めます。そのうち、一人二人と音楽に誘われて中央のステージで踊り始めました。そうです、結婚式はこちらの人にとってはお祭りなのです。それではと、ボクもステージに誘われて踊り始めました。こちらの踊りは腰が基本です。腰を絶妙にくねらせた人が一番うけます。ボクも真似をしましたが、アフリカ人のリズム感にはとても勝てません。仕方なく阿波踊りみたいなのをやったら、これがやたらと皆にうけました。そのうち、新郎も踊り始め、宴はたけなわです。
 
 この間、女性達は一切宴には参加しません。拍手することもなく、ただ片目でジッと見ているだけです。普段は夜中には絶対に外出しない女性達が、こうやって式に顔を出しているだけでも、宴を盛り上げるに値することなのでしょう。しかし、この騒ぎの中で一角だけがおし黙っているのは異様なものです。この国に、こんな文化が今後も続くのであれば、その未来には暗雲がたれ込めています。人口の半分をしめる女性達を文化から遠ざけていれば、この国の発展も半分でしかないはずです。こんなことを思っていたら、流暢な英語で話しかけられました。彼はこう言いました。『はずかしい話ですが、これがこの国の現実です。未だにイスラムの古い習慣から抜け出せません。』 自分の国のことを卑下されると、ボクは逆のことを思いました。先進国と言われているところでも、女性は長い髪にスカートをはいて、自ら行動しにくく抑制しているのではないかと。程度の差こそあれ、基本的にはその現実にあまんじている点では、何の変わりも無いのではないだろうか。いや、女性だけではありません。男性にしても、会社に行く時、何故ネクタイで首を締め付けなくてはいけないのか。この国も、スカートが段々短くなっていったのと同じように、片目が両目に、そして顔全体を隠さないようになっていくのかもしれません。異文化から来たボクがこんな心配をするのは、きっとお節介な話に過ぎないのでしょう。それよりも、もう一度踊りの輪に加わり、皆と楽しくひとときを過ごすことにしましょう。
 
 3回踊ってきました。しかし、宴会(結婚式らしきものは最後までありませんでしたから、もうこう呼びましょう)は、一向に終わる気配を見せません。ついに、12時を過ぎてしまいました。それでも、幼稚園ぐらいの小さな子供達を含めて、誰も帰ろうとしません。ますます宴会は盛り上がっていきます。そのうち、人だかりの中から砂煙が上がってきました。ついに喧嘩まで始まってしまいました。しかし、皆そんなことには気も止めず踊り狂っています。結局、終わったのは夜の3時でした。
 
 次の日は、休日の金曜日。また誘われて結婚式に参加です。今日は、昨日とはうって変わって厳かなものです。街の中のモスク(教会)をまわって、親族がお祈りをしていくのです。この時、昨日の宴会で勇敢にも顔を一切隠さずボクの目を引きつけていた日本的な美人が、実は新婦の妹であることが分かり、昼間見るとさらに可愛かったことを最後に結婚式の話は終わりにしましょう。この時以来、ホテルでのボクの待遇が、まわりの客が首をかしげるほど良くなったことをつけ加えておきます。


 さて、今月六月はラマダン(断食)の月です。太陽の出ている間は、一切の欲望を断ち切り体の中を空にして、原点に帰ろうというものです。したがい、この暑いのに食事どころか水も飲まず、皆フラフラしています。仕事を頼んでも『今はラマダンだから、いやだ』と堂々と断り、木陰で寝ています。昼休み抜きで仕事をしている(ことになっている)ので、午後2時には終わってしまい、それから家に帰って今度は本当に寝るわけです。そして、日没と共に起き上がり、猛然と飯を突っ込んでから、一晩中お祭り騒ぎをするのです。なんのことはない、昼と夜をひっくり返しているだけです。かつ、仕事は堂々とさぼれるのですから、ちょっと理解に苦しみます。他と比較することで、この国を判断するのは止めようと思っていたのですが、これだけはイスラムの名を借りた堕落としか思えません。でも、そんな感想など異教徒の大きなお世話なのかもしれません。
 ここまで書いたところで、部屋に電話がありました。
『ディスコテーク・スッソワール!』
 ラシッド君から、今夜ディスコに行こうというお誘いです。そう、砂漠の中にもディスコはあるのです。もっとも、女無しではありますが。ボクも昼寝をたっぷりしましたので、イスラムのお恩恵にあずかり、夜通しの大騒ぎに付き合うとしますか。
 
 というわけで、手紙はこの辺で終わりにします。最後まで長い話に付き合ってくれてありがとう。でも、おもしろい話はまだまだ沢山あります。例えば、気温55度を体験したこと(腕時計のデジタル表示が暑さで消えます)。遊牧民に出して貰った羊のミルクが、ヨーグルトみたいに酸っぱくておいしいと思ったら、一週間下痢したこと。裸足になって砂漠の中に入ったら、足下の砂の中からサソリが出てきたこと。そして、結婚式で会った新婦の美人の妹と、首都アルジェで再会し、デートしたこと、などなど。この話の続きは、ボクが日本に帰ってからのお楽しみです。それでは!

 1983.6.30
 トゥグールにて

長い文章を最後まで読んでくれて、ありがとう!