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アフリカ担当として3ヶ月間のアフリカ巡回出張に3回行った時の体験記。
アフリカー1
【道の向こうから歩いてきた若い女の子が目の前でいきなりTシャツをたくし上げて胸をポロリと見せてくれたら君はどうするか?】
西アフリカの砂漠の国”マリ”。
完全に内陸の国で、国土の大半がサハラ砂漠。
首都のバマコも砂だらけの街で、全ての家が砂漠の砂を固めて作られていた。
メインストリートだって右端から左端まで1キロの小さな街。
そのメインストリートを歩いていた時の出来事。
目の前からTシャツを着た18才くらいの若い女の子が歩いてきた。
アフリカの女の子も可愛いなと思っていたら、すれ違いざまにいきなりTシャツの裾に手を掛け、ぱっとまくし上げて、自分の胸を自慢げにポロリ。
何が起きたのかと、さすがに狼狽えた。
その後、女の子はTシャツの裾で自分の顔の汗をぬぐって、何事も無かった様にそのまま歩き去って行った。
何のことは無い、暑くて汗をかいたから自分のTシャツで汗をぬぐっただけの話だったみたい。
そのメインストリートで良く見てみると、多くの家の玄関先で親も子供も家族みんなが真っ裸で水浴びをしていて、外から丸見え。
裸が恥ずかしいなんて感覚は皆無なんだね。
国が違えば文化も違うということが良く分かった瞬間だった。
アフリカ-2
【大統領と握手】
アフリカのど真ん中にある国、”中央アフリカ”。
内陸の小さな国で、首都のバンギでも街の幅は1キロ程度。
街の西端に大きな川が流れていて、向こう岸で隣の国ザイールの人が川の水で洗濯しているのが見える。
のどかな雰囲気だった。
日本からのODA援助で井戸掘りが盛んに行われていたので、現場を見学しに行ったら、たまたま井戸を掘り当てたところに出くわした。
突然地表から水が小石と共に吹き出してきて、当たりが暗くなり、そして水混じりの小石の雨が降ってきて、頭にバチバチ当たって痛かった。
小石の吹き出しが止まり、水の噴水だけになったところで、井戸掘りは完了。
東アフリカの一部を除けば、アフリカは水たっぷりの肥沃な土地なんだよね。
なんと言っても、人類が誕生した大地なんだから。
この国に何しに来たかと言えば、そのODA井戸掘り事業用のトラック引き渡し式に参加するため。
前日に日本大使館に呼ばれて、説明があった。
曰わく、「大統領も出てくるので、失礼の無いように」と。
なんと自分も自動車メーカーを代表して大統領に挨拶せよとのこと。
フランス語でどうやって挨拶するんだぁー?
その夜、ホテルに戻って、持ってきたフランス語の辞書をめくりまくった。
当日、日本からの代表者の一人として紹介されて、大統領の前に歩み出た。
「大統領閣下のご高配に預かり、光栄至極に御座います」みたいな歯の浮く、そして普段は絶対に使わないフランス語で挨拶。
そして、ご苦労様と言われて、大統領と握手!
大統領と握手したことある人って、あまりいないよね。
ちょっと自慢!
実は、別の国の大統領とも日本で握手することになるんだけど、この話は次に。
アフリカ-3
【日本の警察SPが鉄拳一発でカバンをたたき落とした】
アフリカの真ん中の小国、”ルワンダ”。
内陸の小国で、ゴリラが生息していることで有名。
アフリカの西側と中央の人達は、顔の作りがゴリラにとても似ている。
両者の違いは顔の色合いで、西アフリカの人達は青みがかったブラック、中央アフリカの人達は茶色いブラック。
ゴリラとか猿は茶色いブラックなので、同じ色合いの中央の人達がホモサピエンス(人類)の起源だと、アフリカを廻っていて確信した。
その人類起源地域の一角にあるルワンダに、バスを沢山納めていたので、何回も出張で行った。
そして、そのルワンダの大統領が、日本に来たことがある。
アフリカの小国と言えども、一国の大統領が来るということで外務省も含めて大騒ぎだった。
その大統領が、我が社の工場に見学に来た。
工場見学が終わり、日本主催の歓迎パーティーの時間が迫っているので、大統領一行は外務省手配の車では無く、急遽大宮から新幹線で東京に戻ることになった。
会社から車で大宮駅まで移動し、大統領一行と警護の警視庁SP、それに自分を含めて10名程が列をなして大宮駅前広場を駅に向かって歩いていた時の出来事。
我々の列の目の前にいた人が、たまたま自分のカバンを開けようとした。
その瞬間、列の先頭にいた警視庁SPが、白い手袋をした鉄拳で、そのカバンを一撃。
拳銃とかナイフを取り出して、大統領に向ける危険があると判断したのだと思う。
カバンは、SP鉄拳の一撃でたたき落とされ、カバンを持っていた人は、突然何が起きたのか分からずポカーンとしていた。
我々10人の列の最後尾にもう一人のSPがいて、たたき落とされたカバンを拾い上げ、「VIPの警護中ですので、ご協力下さい」と言い、中を一瞬確認してからカバンを持ち主に渡した。
10人の列は、その間に止まることなく、何事も無かった様に足早に大宮駅に向かって歩いて行った。
カバンの持ち主は、憮然とした顔をしていたけど、異様な雰囲気に圧倒されて、一言も文句を言えずに呆然と立ちすくんでいた。
VIPを守るSPのプロ仕事を見せて貰った瞬間だった。
10人の列は、JR職員の誘導で新幹線の改札を通り、フォームに上がった途端に入ってきた新幹線のグリーン車に乗車。
車両には、別のSPが手前の駅から既に乗っていて、グリーン車は完全貸し切り状態で出発。
東京駅に到着し、再度JR職員の手際良い誘導で、外務省手配の車まで移動。
大統領は、これから日本主催の歓迎パーティー。
私の大統領同行はここでおしまいで、別れ際に大統領から「ご苦労様」と握手を求められ、2人目となるアフリカの大統領と握手。
ちなみに、生まれて初めての新幹線無賃乗車だった。
アフリカ-4
【スコットランドのお酒に、フランスの炭酸水を入れて、アフリカのジャンングルでのどを潤す】
西アフリカのジャングルの奥深くへ。
パリから飛行機に乗って6時間で”ガボン”という西アフリカの国に着いて、そこから国内線で2時間、さらに水上飛行機に乗り換えて1時間。
そして、ジープでガタガタ道を3時間走って、やっとたどり着いたのが、ジャングルの中の道路工事現場。
映画「ジェラシックパーク」の舞台みたいで、鬱蒼とした森の中から大きな恐竜が本当に出てきそうな所だった。
そこで道路工事現場を仕切っているフランス人に「日本からわざわざご苦労様」と冷房完備のトレーラーハウスの中で飲ませて貰ったのが、ウイスキーのペリエ割り。
これが、旨かった!
屋外の蒸し暑さを追い払うように、スカッとしていて、本当に旨かった。
それ以来、ペリエ割りが一番美味しいウイスキーの飲み方だと思っている。
何をしにジャングルまで来たかというと、「トラックがすぐ壊れる」という苦情を聞きに。
「このぬかるみの道で曲がりなりにも稼働出来るのは我が社のトラックだけですよ」の一言で何故か納得してくれて、トレーラーハウスに移動してウィスキーで乾杯。
アフリカー5
【アフリカ産のカクテル】
西アフリカの”ガーナ”で、カクテルを飲んだ。
ガーナは、元イギリス領のけっこう栄えた国で、西アフリカでは優等生。
日本ではチョコレートで有名で、カカオは貴重な外貨獲得手段。
カカオ運搬のためにトラックが沢山売れていたので、何回か仕事で行った。
栄えていると言っても、夜になると首都のアクラでも街灯がほとんど無い。
夜に暗闇の中を歩いていたら、突然目の前に上半身裸の黒い人が迫って来ていてビックリした。
黒い人は闇に紛れて見えないんだよね。
そんな所なので、夜はホテルで過ごすしか無く、アフリカ訛りの英語の勉強がてらロビーのバーでいつも時間をつぶしていた。
トイレもシャワーも共同のひなびたホテルだった。
名前は「アンバサダーホテル」。
バーのおじさんが、暇なアジア人にいつも付き合ってくれて、自作のカクテルと言ってウォッカベースのクリーム色の甘いカクテルを時々おごってくれた。
その何年後か、アメリカ駐在時代にカクテルにはまり、日本のサントリーが発行しているカクテル本を、ロサンゼルスの紀伊國屋で手に入れてビックリ。
「ハイライフ」と命名されたカクテルが載っていて、曰く「ガーナの首都アクラにあるアンバサダー・ホテルのチーフバーテンダーだったギュスターブ・ミンタが、ホテルの客のために考案した」とのこと。
なんでアフリカの場末のホテルの話が、日本の本に出てくるの?
日本人も含めて外国人は誰も泊まってなかったよ。
そして、カクテルのレシピを見て、もう一回ビックリ。
ウォッカベースにパイナップルと卵白とのこと。
アフリカで生卵が材料だと知っていたら、絶対に飲まなかったよね。
「ハイライフ&カクテル」でWeb検索すると、このカクテルの情報が沢山出てくる。
ちなみに、そのアフリカ産カクテルは、とても美味しかった。
アフリカ-6
【ネクタイしたままサファリ観光】
東アフリカの観光立国、”ケニア”。
東アフリカは、ケニアのナイロビが中心地で、元英国領であることから、アフリカのロンドンと呼ばれている。
そして、ナイロビは、アフリカでも有数の観光地。
象やライオンを見にサバンナへ行くサファリが有名。
観光客は、判を押したように皆サファリルックで、ベージュ色のサファリスーツ上下に、カシッとしたサファリ帽をかぶってる。
席を取り付けただけの屋根も無いトラックの荷台に大勢のサファリルックを乗せて、サバンナを目指して毎朝ホテルから続々と何台も出発していく。
自分は、もちろん仕事に来ているので、観光客には目もくれず、ネクタイを締めてお客様のところへ。
午前中に仕事が終わったので、午後はお客様の薦めに従い、ブルーバードを借りて自分の運転で近所の国立公園へ。
国道から教えられた通りに脇道へ。
多少の凸凹道ながら自家用車でも問題なく通れる森の中を抜けると、突然目の前に大サバンナが現れた。
いやー、雄大だった。
遠くにキリマンジャロがそびえ立ち、フラミンゴのピンク色が一面に広がっていた。
その向こうには象が。
アフリカ象は、インド象と違って耳が大きいと聞いていたが、確かに大きな耳をユサユサ揺すってた。
サバンナが見られるとは全く思っていなかったので、大感激。
その時、私の後ろから、沢山のサファリルックの観光客を乗せたトラックが凸凹道に揺られながらユッサユッサとやってきた。
トラックの荷台で揺られ、さらに炎天下なので、皆お疲れの様子。
ネクタイ姿の私は、エアコンのバッチリ効いたブルーバードで次のポイントへ軽やかに移動。
サファリするのに、何もサファリルックを着て、トラックに揺られなくたって、普段着に普通の車で充分だった。
アフリカ-7
【ホテル中に響き渡る深夜のうめき声はなんだ?】
東アフリカにある綿花の国、”スーダン”。
首都カルツームの空港に降り立ったら、自動小銃を持った兵士が何百人もいて、物々しい警戒態勢が引かれていた。
ヨーロッパの空港でも自動小銃を持った兵士を数名見かけることはある。
けれども、空港全体がまるで軍隊に制圧されているかの如く、どこに行っても沢山の兵士が睨みを効かせ、今にも自動小銃を打ち出しそうな緊張した雰囲気は初めての経験。
入国してから分かったことだけど、前の日にクーデターがあって、大統領が軍隊に追放されたとのこと。
今ならニュースが即座に全世界を駆け巡り、会社から渡航中止のメールが飛んでくるのだろうけど、25年前はそんなことも無く、情報は自分で取り、自分の判断で身を守るしか無かった。
幸い無血クーデターだったので、街中も含めて平穏が保たれていた。
会社から「何故クーデター直後のスーダンなんかに行ったんだ」と後で怒られたけど、それは行く前に言って欲しいよね。
さて、今回の目的地は、首都カルツームから200キロくらい離れた隣の県の綿花畑。
スーダンと言うと、アフリカの飢餓地域という印象が強いだろうけど、ここは白ナイル川と青ナイル川に囲まれた広大な三角地帯で、綿花畑が広がる肥沃な大地。
綿花畑があれば、当然ながらトラックも沢山稼働しているので、私の仕事場でもあった。
県庁所在地のホテルに泊まって、お客様廻りをした。
夜が訪れると同時に、街中には誰もいなくなって、ホテルで過ごすしか無くなり、やることも無いので、8時にはベットの中へ。
一眠りしたところで、大きなうめき声で起こされた。
ホテルは石を積み上げて出来ているので、ホテル中にそのうめき声が反響して、とても寝ているどころでは無かった。
「何事か」と部屋から廊下に出てみたが、石で出来た壁に反響してどこから聞こえてくるのかも良く分からず、耳栓をして再度ベッドへ。
次の日も同じ状況。
まるでムチで何回も何回も背中を打たれている様な女性のうめき声がホテル中に鳴り響いている。
「俺は寝たいんだ」と耳栓をして、またベットの中へ。
その次の日、朝ご飯を食べに食堂に降りると、ひげを一杯蓄えた若い男性と、上から下まで黒い布で覆った若い控えめな女性のカップルが沢山いた。
フロントの人曰く、「ここは県内の人達が新婚旅行で来ることを憧れている一番高級なホテル」とのこと。
ここで昨夜のうめき声が何だったか普通は分かるんだろうけど、何事にも鈍感な私は全く分からず、1ヶ月程してから「ひょっとして」と日本に戻ってから気が付いた次第。
東アフリカは、ケニアとエチオピアを除いてイスラム圏で、アラブの国。
アラブの女性は、ベールで顔を隠して、いつも物静かだけど、3つの出来事の時だけは精一杯の大声を出すことが許されている、と言うより大きな声を出すことを求められているのではないだろうか。
1つ目は、テロとか紛争があった時に良く国際ニュースで流れている大きなジェスチャーと共に泣き叫ぶおばさん達の様に、身内に不幸があった時。
2つ目は、身内の結婚式。
北アフリカのアルジェリアで結婚式に招待された時、おばさん達のあまりに大きな奇声にビックリした。
そして、最後の3つ目は、私が泊まったホテルでの出来事の様に、自らの初夜。
結局、そのホテルには1週間泊まった。
眠い目をこすりながら、チェックアウトしようとしたら、「外国人はドル払い、額は50ドル」とのこと。
首都カルツームではヒルトンホテルに泊まっていて、1泊200ドル(当時3万円)だったけど、それでも「このホテルで50ドルは高いな」と思いながら、50ドル紙幣を7枚出そうと思ったら、1枚だけ取って「サンキュー」とのこと。
え、1週間でたった50ドル!(7,500円) まあ、劣悪な睡眠環境だったから、納得できる値段ではある。
(当地の人にとっては贅沢なホテルなんだと思うけど)
アフリカ-8
【黒人と白人の起源は?】
東アフリカの高地、”エチオピア”。
首都アジスアベバは、標高2,500mの高地にあり、入国して数日は酸素不足になり、頭痛に悩む。
寝ると呼吸回数が減り、ますます酸素不足になるので、「頭痛がしたら夜も寝るな」と言われたのだが、寝るなと言われても困るよね。
アフリカへはヨーロッパから入ることになるのだけど、アフリカとヨーロッパを行き来していて、「何故アフリカには肌の黒い人しかいなくて、逆にヨーロッパには肌が白い人しかいないのか」と素直な疑問を感じ続けていた。
猿が進化してホモサピエンス(人類)が生まれたのは分かるけど、何故ヨーロッパ人は黒くなくて白いのか?
昔は、「多地域進化説」(各地で猿が人間に進化)が主流で、ヨーロッパ人はヨーロッパ内にいた猿や原人が白い肌の人間に進化したと言うもの。
昔から良く本に載っていた添付の絵は、まさしくその概念から描かれたもので、猿からの進化の課程で人間は最初から白い肌になっている。
一方、「アフリカ単一起源説」があり、アフリカで人類が生まれ、その人類がヨーロッパも含め世界にちらばったというもの。
つまり、人間は最初は肌が黒く、どこかの課程で黒人から白人が枝別れしたことになる。
ヨーロッパ人にしてみれば、自分達がアフリカの黒人と同じルーツだと思いたくないのか、当時はマイナーな説だった。
ある時、エチオピアの首都アジスアベバの街中で、私の目の前を銀髪で白い肌の男性が歩いていた。
「珍しくヨーロッパ人がいるな」と思ったのだが、その男性がこちらを振り向いてビックリ。
なんと、肌は真っ白、頭の髪もまつ毛も銀色だが、顔つきは黒人だった。
いわゆる白子(色素異常で肌に色が無い)で、肌は白いと言うよりはピンク色。
そして、目の色も茶色く無くて、ブルー。
彼を見た瞬間に「これが白人の始まりだ」ととっさに思った。
そして、白人は黒人からこうして生まれたんだと、その時に確信した。
その時は「アフリカ単一起源説」を知らなかったのだが、ホモサピエンス(人間)の起源はアフリカの大地だと気づいた瞬間だった。
ここ数年のことだが、「アフリカ単一起源説」がテレビでも紹介される様になり、主流の説になっている。
自分は、25年前にとっくにそのことに気付いていたんだけどな。
アフリカ-9
【子供は何人?】
東アフリカの最貧国、”ソマリア”。
当時からソマリアは、アフリカの最貧国の一つだったけど、治安はまだ比較的安定していた。
援助物資を地方に運ぶためのトラックが国連機関に納入されたのに合わせて、自分も入国した次第。
トラック運営会社の人と一緒に行動した。
世間話の中で「子供は何人いるの?」と聞かれ、長女が生まれたばっかりの頃だったので、「1人」と回答。
すると、
「え、たった1人」、
「俺は子供が5人、他のみんなも子供が沢山いるよ」、
「生きる力の薄い子が何人か亡くなっても、大丈夫な様に」とのこと。
ショックな言葉だったけど、当地で生活している人達の生き方が分かった瞬間だった。
数年後にソマリアは国内各地域のエゴから国が破壊し、無政府状態に。
そして、追い打ちを掛けるように大飢饉が発生。
衛生状態も劣悪になり、ユニセフが「このワクチン1本で1人の子供の命が助かる」とのキャンペーンを始めたのもこの頃。
このキャンペーンを見て思ったのは、当地の人達が環境が悪化すればするほど多産になっていく生き方とバランスが取れなくなってしまうんじゃないかと。
難しい問題だね。
アフリカ-10
【あなたのパスポートでは無いと入国拒否】
西アフリカの知られざる国、”ブルキナファッソ”。
国の存在自体を知らない人が多いと思うけれど、西アフリカ内陸ののんびりとした国。
さて、アフリカを旅していて一番大変なのは、国から国への移動日。
出国審査であれやこれやと文句を言われてとても疲れるが、同じ日に必ず次の国に入国せねばならず、この入国がさらに疲れる。
良くあるのが、荷物検査での「これは何?、1つよこせ」というやりとり。
アフリカの多くの国では、賄賂が当然のように横行していている。
権力を手にした人は、その権力を駆使して金を生み出そうと努力する。
大統領から官僚、そして一般職員まで、権力の種類や大きさは異なっても、駆使しようとするのは皆同じ。
取られて当たり前、だから取って当たり前、それが当然だと皆が思っているように感じる。
例えば、我々の身近なところでは警察官。
外国人が運転していると見るや、止めて難癖を付け、お金での解決を迫る。
アフリカのどこに行っても同じ傾向なので、これはしょうが無いこととあきらめ、1回拒否してもダメな時は税金と思って素直に従うことにしている。
今回は、隣の国ガーナからブルキナファッソに移動。
始めて行く国なのでどうなのかと心配したが、入国時のパスポートチェックで一人一人個室に呼んでいて、いやな予感。
その個室で審査官が私のパスポートを見て、「このパスポートはあなたのでは無い」と言い出した。
これまで色んなケチを付けられてきたけど、これは新手で、ビックリした。
外国人にとってパスポートが唯一の自分の証明書だから、それがあなたのでは無いと言われてしまうと、もうどうしようも無い。
でも、パスポートの自分の写真を見てみると、確かに顔つきが全然違う。
パスポートの写真を撮ったのは結婚前で、結婚してから毎月1キロづつ太って、プラス10キロ以上になってたからね。
今回は完敗。
相手の方が1枚上手だった。
「本来なら入国を許可しないが、1つだけ解決策がある」とのことで、ドル紙幣での解決提案に素直にしたがって、無事に入国。
あー、疲れた!
正しい対応の仕方は、パスポートを発行している日本の現地代表である日本大使館の人を呼ぶ様に要求すること。
でも、自分も含めて皆の時間の浪費になるので、これは最後の最後の手段。
この後、次の訪問国ガボンの日本大使館に頼み込んで、パスポートを新しくして貰い、写真と本人が同一の顔つきになったところで、アフリカ巡回を継続。
アフリカ-11
【南アフリカに行きたい!】
アフリカ最南端にあるアフリカ最強の国、”南アフリカ”。
ケニアが「アフリカのロンドン」で、アビジャンは「アフリカのパリ」と言われても、所詮はヨーロッパ風の街並みがあるというだけ。
南アフリカ(南ア)は、ヨーロッパと比較すること自体に意味が無いアフリカそのものの魅力にあふれた国である(と信じている)。
なんと言っても、サッカーのワールドカップを開催する国力があるのは、今でも南アだけ。
そして、アパルトヘイトを克服し、マンデラ大統領の基、国をまとめ上げてきたのは立派だと思う。
仕事で5年間アフリカと関わっていて、一度は必ず南アへ行きたいと思っていた。
当時はまだアパルトヘイト華やかりし頃で、パスポートに南アの入国スタンプが押されていると、反アパルトヘイトの立場から他の国は入国を拒否する時代だった。
それでも、どうしても行きたくて、会社に内緒で日本の南ア大使館に行き、パスポートには影響しない形で入国ビザを貰い、隙あらば南アへ強行入国しようと考えていた。
隣の国ジンバブエまで行った時に、会社にメールを打ち、 「アフリカ最大のマーケットである南アを訪問することは大きな意義があり、ビザも入手済み」 と切々と訴えた。
会社からの回答は、あっさり一言、「早く帰って来い」だった。
曰く、「君はアフリカ担当から外れ、次の仕事が待っている」とのこと。
この時点で、自分の米国駐在が社内で既に決まっていて、準備が目白押しだったのである。
喜望峰やビクトリア滝、雄大な自然動物公園、そしてアフリカの中で唯一成熟したマーケット、全てが未だに体験することが出来ず、夢のままである。
いつか行けるだろうか?
夢は持ち続けていたい。
この南ア編で、一連の「アフリカに行ったことがある」は、お仕舞い。
あと2本の番外編とアフリカ最終まとめを書くので、引き続きお付き合いを。
アフリカ-12
(番外編-1)
【ロンドン-パリ往復は、英国航空とエアフランスのどちらが良いか? 前編】
アフリカへは、いつも片道切符で行っていた。
3ヶ月を掛けて巡回していると、状況が変化して事前の予定など組めなくなるので。
例えば、ロンドン経由、ケニアのナイロビまでの片道航空券でアフリカに渡り、次にどの国に行くかは現地に入ってから決めていた。
したがい、アフリカのどこかの国に入国すると、まず真っ先にやることは、次にどの国に行くか決めること。
お客様と連絡を取り合い、スケジュールが一致すれば、その国の大使館に行ってビザを入手。
これで、やっと今の訪問国での仕事を始められることになる。
1カ国1週間を基本として動いていた。
1日目は国から国への移動日、2日目が次の訪問国を決めてビザ取得、3~5日目は仕事して、 6日目にレポート書いて、7日目は休養日。
そして、8日目が再び移動日と言った感じで、3ヶ月に渡ってアフリカの中を巡回していた。
ある時、西アフリカのセネガルにいて、次の訪問国をカメルーンと決め、入国ビザを取りにカメルーン大使館へ。
な、なんと、「日本人にはビザを発給しない」とのこと。
曰わく、「東京に先月カメルーン大使館が出来たので、日本人は東京でビザを入手しなければいけない」と。
そんなぁー、「自分は2ヶ月前に日本を出ていて、東京のカメルーン大使館はまだオープンしてなかった」と説明したものの、「それが決まり事」と全く受け付けて貰えず。
カメルーンには絶対に行かなくてはならないし、どうしたものかと悩んでしまったが、困った時に役に立つのが、日本の商社の情報網。
ロンドンのカメルーン大使館へ行けば、まだビザを発給してくれるらしいとの情報を入手。 日本へ帰るよりは英国に戻る方が良いと判断し、急遽ロンドンへ。
アフリカを巡回していると、色んなハプニングがあって、臨機応変な対応が求められる。
ロンドン-パリを往復する本題にまだ到達していないけれど、話が長くなったので、続きは後編へ。
アフリカ-13
(番外編-2)
【ロンドン-パリ往復は、英国航空とエアフランスのどちらが良いか? 後編】
カメルーンの入国ビザを取得するためにロンドンまでやってきたことは前編の通り。
早速、カメルーン大使館へ行ったら、「本国からの指示が昨日入り、日本人にはロンドンでビザを発給しない」と言われてしまった。
あちゃー、1日遅かった。
ここで、再び日本の商社情報網によれば、「パリのカメルーン大使館は、今日もまだ日本人にビザ発給していた」とのこと。
やっと、本題のロンドン-パリ往復の話にたどり着いた。
ロンドンとパリ間は、英国航空とエアフランスが飛んでいる。
協定で決まっているので、値段はどちらも同じ。
旅行会社のリコメンドは、英国航空。
何故なら、朝食が付いているからとのこと。
この時は「英国航空だけ何故?」と思ったのだが、リコメンド通り翌朝一番の英国航空で、いざパリへ。
ロンドンとパリって、すごく近いんだよね。
日本で言えば、東京と大阪の距離。
飛行時間は、わずか1時間半。
離陸して30分は上昇、後半30分は降下で、水平飛行をしているのは中間のわずか30分間だけ。
したがい、かの朝食は、この水平飛行の30分の間だけになる。
シートベルト着用サインが消えると、機内は慌ただしくなり、スチュワーデスは小走りで乗客全員に朝食プレートを渡し廻っていった。
この間10分。
異様な雰囲気に圧倒されて、乗客も急いでジュースとパンを胃袋の中へ。
これも10分。
そして、最後の10分で、まだ食べている人からも有無を言わさずに朝食プレートを回収して、全てがジャスト30分で終了。
見計らった様にチーンと鳴ってシートベルト着用のサインが点灯。
イヤー、お見事な仕事だった。
そして、エアフランスでは朝食を出さない(出せない)理由が良く分かった。
エアフランスだったら、スチュワーデスは乗客と無駄話しながら朝食を運ぶだろうから、出すだけでも30分は掛かるはず。
そして、「ワインも飲みたい」なんて言い出す乗客もいるだろうから、10分で朝食を食べ終えるなんて、考えも及ばないはず。
したがい、エアフランスは、出来ないと分かっているので、朝食は無し。
これは、民族性の違いだと思う。
きちっとしているアングロサクソンと、何事にもゆったりとしているラテンの差。
サービスを受けるのなら、アングロサクソン(英国)の方が良しというのが、この時の結論。
もっとも、友達にするなら、ラテン(フランスとかイタリア)だけどね。
さて、かのカメルーン・ビザは、パリであっさりと入手出来て、ちょっとパリ観光してから、その日の夜便でロンドンにとんぼ返り。
初めから日帰りのつもりだったので、アタッシュケースだけで飛行機に乗り込んでいたのだが、同じ様にロンドン-パリ日帰りと思われるアタッシュケースだけを持った日本人がもう一人いた。
当時、日本で最も有名なレーサーだった生沢徹。
ロンドンを拠点にしてレーシング・マネージメントの仕事をしているとのことだった。
ロンドン-パリを日帰り出張なんて、自分も国際ビジネスマンに仲間入りした様な気分だった。
アフリカ -14
(アフリカ編のまとめ)
【アフリカに住む】
自分が初めて行った外国は、北アフリカの”アルジェリア”。
海外に出たことが無いのに、「半年間サハラ砂漠の街に一人で住んでこい」と言うとんでもない会社からの命令だった。
でも、自分の考え方を根本から変えるような素晴らしい経験を幾つもすることが出来た。
それまでは、血液型A型の典型で几帳面だったのだけど、「これで良いんだ」と思うことが一杯あって、この時以来O型の様なおおらかな考え方に変わってしまった。
その時のことは、別ページに書いているので、興味のある方はどうぞ。
ところで、これまで書いてきたアフリカ訪問記は1985年頃の話で、この後5年くらい経ってから、アフリカはどこも危険な国ばかりになってしまった。
あんなに穏やかな人達ばかりだったルワンダでは大虐殺があり、自分が握手した2人の大統領も殺されてしまった。
さらに、自分が住んでいたアルジェリアでは「外国人は全員殺す」と宣言したうえで本当に実行されたし、アフリカの暗黒の日々が始まってしまった。
そして、それは今も続いている。
今回訪問記を書いた国の内、ケニアを除く11カ国はいずれも「渡航禁止」や最上位の「退避勧告」に指定されていて、殺戮のニュースが日々伝わって来る。
アフリカは、人類が誕生した偉大な大地。
そして、自分にとっては、アフリカ担当だった5年の内、延べ3年以上もアフリカの地にいて、大きな影響を受けた第二の故郷。
なのに、彼らは自らを傷つけあっているだけで、何の前進も無く、とても残念。
アフリカ-おまけ
【厚さ1センチの分厚いパスポート】
アフリカを巡回していた時のパスポート。
厚さ1センチで、これを片手にアフリカの中を巡っていた。
昔はビザスタンプのページが一杯になると「増補」と言って20ページが追加された。
そして、それも一杯になると、「増冊」と言って従来のパスポートの下に新たな1冊をホッチキス止めし、さらに専用のリボン&ワッペンで封印していた。
写真のは、増補→増刷→増補→増刷の結果で、3冊で1つのパスポート。
どっしりと重みがある。
アフリカはどこの国もビザが必要で、さらに入国と出国の大きなスタンプが押されるので、1つの国の訪問で2ページが消費される。
数ヶ月いると10カ国は廻るので、あっという間に増補分20ページは無くなってしまう次第。
入国審査の列で1センチの分厚いパスポートを手にしている日本人は、たいてい商社の人。
メーカーの人でこの1センチパスポートを持っている人は珍しく、出張者仲間の間ではちょっとしたステータスだった。
ちなみに、写真のパスポートは、1冊目がロンドン、2冊目がガボン、そして3冊目はカメルーンの日本大使館発行。